今回は、世界的に注目を集める女性文人画家、西松凌波(雅号 にしまつ・りょうは 室号:琅玕居[ろうかんきょ])画伯のお話をまとめました。
画伯は、日本画家・西松秋畝の次女として1941年に鎌倉で生まれ、育ちました。横浜国立大学及び同大学院教育学研究科絵画専攻(修士)を修了後、油彩画やドライフレスコ画を経て、1989年より雅号を「西松凌波」と改め、文人画の世界へ傾倒。現在は個展を中心に国内外で広く活躍されています。
墨彩画をベースに、詩・書・画を融合させた「現代文人画」の新境地を開拓し、日本美術評論家大賞(現代文人画部門大賞)を受賞。詩や音楽からインスピレーションを受け、墨や彩墨を用いて即興で描く「席画(せきが)」も得意とされています。
現在は日本美術家連盟会員であり、文人画を教える凌波の会を月1回開催し会員数は女性のみで数名。緑豊かな鎌倉のご自宅兼アトリエにお邪魔しました。

[インタビューを終えて]
ご自宅の脇を流れる小川には、カルガモの雛たちが数羽、元気に泳いでいました。夏には蛍も舞うそうです。自然豊かな鎌倉の四季が、画伯の作品の源泉になっているのだと感じました。
(美竹やさか法律事務所 スタッフ弁護士)

鎌倉市扇ガ谷(オオギガヤツ)のご自宅(画室)にて[いずれの写真も2026年8月撮影]

 

■ 築100年の歴史を刻む自宅
この家は築100年以上になると聞いていますが、私はここで生まれ、それ以来ずっとこの場所で暮らしています。父は画家でしたので、亡くなるまでここを自宅兼仕事場としておりました。現在は、私がその父の仕事場を受け継いで使っています。

仕事場の風景


■ 受け継がれる「画家の血」と、文人画との出会い

岐阜県出身の日本画家だった父は、美大(現・東京藝術大学)を卒業後、神奈川県師範学校(現・横浜国立大学)で教鞭を執っていました。
父が画家だったこともあり、私が絵の世界に進んだのはごく自然な流れでした。ただ、最初は日本画ではなく、横浜国立大学の美術科で油絵やデザインを学び始めたのです。しかし在学中に父が亡くなり、その後大学院で学ぶうち、西洋美術よりも東洋・日本美術史や日本画へと深く興味が移っていきました。大学の卒業論文では「日本画の余白について」というテーマをまとめました。
卒業後は、横浜の私立精華小学校で美術教師となり、15年ほど子どもたちの造形教育に携わりました。その後、母校に大学院が新設されたのを機に進学し、本格的に文人画の研究を始めることになったのです。

【ミニ知識】文人画とは?
中国において、宮廷の職業画家が描く北宗画(ほくしゅうが)に対し、学識のある文人が「心のままに描く余技」として発展させた絵画を南宗画(なんしゅうが)といい、文人画とも呼ばれました。日本ではこれを受容した池大雅、与謝蕪村、谷文晁、渡辺崋山らが代表的な画家として活躍しました。明治以降、アーネスト・フェノロサや岡倉天心らによって低く評価された時期があり、一時は衰退しました。
江戸時代の文人画家・谷文晁は非常に人気の高い絵師でしたが、それゆえに後世、多くの贋作(偽物)が出回った作家としても知られています。

 

■ 影響を受けた画家・書家
父(西松秋畝)と蘇東坡ですね。

■ 西洋画から、一瞬の真剣勝負である「墨彩画」の世界へ
大学院修了後は、大学など6校ほどの非常勤講師を掛け持ちし、多忙な日々を送っていましたが、絵を描くことだけはやめませんでした。当時は油彩画のほかに、「ドライフレスコ画」にも取り組んでいました。これは、乾かした新鮮な漆喰(しっくい)の壁をキャンバスにし、水でうすめた膠液と顔彩や墨彩を直接描き込んでいく伝統的な壁画技法です(山形県の銀山温泉などに見られる、漆喰の立体的なレリーフ「鏝絵(こてえ)」とは異なるものです)。
油彩など西洋の絵画は、絵の具を「塗り重ねて」作品を完成させていきます。一方で、日本画と違い文人画は、筆と紙、あるいは絹が触れ合う「一回きりの真剣勝負」で自己を表現する墨彩画の世界。次第に、その潔さと奥深さに強く惹かれるようになっていきました。
40代後半、いよいよ画業一本に専念するため、すべての教職から退く決意をしました。当時の教え子たちとは、今でも温かい交流が続いています。
また、2023年に亡くなった夫も、長く高校の社会科教諭を務めていました。彼は在職中から、鎌倉市の依頼で子ども向けの歴史本をまとめるなど、郷土史家として地域に貢献しており、私の活動をいつも静かに支えてくれていました。

■ 文人画の神髄「詩・書・画三絶」の道を求めて
中国には「詩・書・画三絶(し・しょ・が・さんぜつ)」という言葉があります。自分で詩を作り、書をしたため、絵を描く。その3つの要素のどれもが絶品であり、それらが一体となって初めて、その人の「人となり」が作品に現れるという意味です。江戸時代の池大雅・与謝蕪村や、明治から大正にかけて活躍した富岡鉄斎は、この「三絶」の達人として著名です。
私も現代に生きる文人画家として、この「三絶に印を入れた四絶」の境地を目指しています。科学の世界が「説明」であるならば、芸術の世界は「哲学」です。この道をさらに極めるためにも、現在は老子や荘子の思想(老荘思想)の世界を、もっと深く勉強したいと考えています。最近は、鈴木大拙や西田幾多郎の研究もしています。

竹紙に竹の絵を描く凌波画伯


■ 出会いを生む個展、そして「想を練る」取材

最近は個展での発表が中心となり、これまで80回以上の回数を重ねてきました。個展会場では本当に様々な方との出会いがあり、そこから本の挿絵や絵葉書の制作をご依頼いただくなど、新しい仕事へと繋がっていくのが新鮮です。
私は、「取材」にとても念を入れます。墨彩画の依頼をいただくと、何度も足を運び、徹底的に想を練ります。正確さを期すためにスケッチをしたり、カメラで記録したりもしますが、それは単なる写生ではありません。集めた素材を自分の中で咀嚼し、この画室でじっくりと創り上げていくのです。

■ こだわりの画道具と、彩墨の魅力
「墨彩」とは、水墨画の技法をベースに、顔彩(24色パレット状のものやチューブもある)と鉄鉢、彩墨、水彩絵の具(透明及び不透明)で鮮やかな色彩を加えた絵画です。

愛用の墨と硯

画室は自宅の2階にあります。私は、山馬(さんば/山馬鹿と呼ばれる中国の鹿の毛で作られた筆)などの筆をはじめ、墨、硯、和紙、絵絹(えぎぬ)といった道具に、とてもこだわる方です。硯、水差し、硯屏(けんびょう。埃よけの小さな衝立)、筆置きや墨床などの小物類も、自分が「これこそが最もふさわしい」と思える見立ての品を愛用しています。

【こだわりの画道具】
紅糸硯(こうしけん)
中国の山東省付近で採掘される「紅糸石」を用いた伝統的な名硯。黄色や紅色の地に、まるで美しい糸を引いたような縞模様(紋様)が流れているのが特徴です。

彩墨とそれ専用の紅糸硯


■ 広がる表現の幅と、多彩な仕事

自身の作品制作だけでなく、多方面から様々な仕事を依頼されています。雑誌の挿絵、郵便局の絵ハガキ、タウン誌の表紙絵をはじめ、かつては横浜の東急東横線と相鉄線を結ぶ通路の「ステップギャラリー」に作品を展示し、通勤・通学で行き交う人々の目を楽しませる空間演出のお仕事をお引き受けしたこともあります。
また、帯や着物に直接文字や絵を描いて楽しんだり、古い布を使って取り合わせを考え、表装を頼んで、できあがりを楽しんでいます。また、昆虫採集で使う透明なアクリル箱に自分の絵を収めて立体的な額縁に仕立てたりもしています。音楽を聴きながらインスピレーションのままに描く即興の「席画」も大好きで、「袴に絵を描いてほしい」という粋なご依頼をいただき、描いたこともあります。

■ 鎌倉の風土と、これからの歩み
生まれてから今まで、ずっと鎌倉の街で暮らしてきました。海から吹き抜ける風、そして三方を囲む山々の、四季折々の表情の変化にはいつも新鮮な興味をかき立てられます。
かつて、大きな作品の制作に集中するため、浄明寺に一軒家を借りて1年半ほどアトリエを構えたことがありました。その大仕事が終わり、現在はそのアトリエを手放しましたが、やはり私にとって創作の源は鎌倉にあります。この土地の魅力に惹きつけられ、どうしても鎌倉から離れることができないでいます。
これからもこの愛着ある扇ガ谷の画室から、心に響く文人画を紡ぎ続けていきたいと思っています。

■ 近況・実績
2004年9月『鎌倉 古都点描』文:中村藤一郎 画:西松凌波(冬花社)
2004年10月 画集『暮らしをいろどる墨彩画 西松凌波の華世界』(日貿出版社)
2007年 著『西松凌波 ー 父西松秋畝』(鎌倉市立中央図書館にて禁帯出[館内閲覧]扱いとして所蔵)
2026年8月 鎌倉・鶴岡八幡宮境内で開催される「雪洞(ぼんぼり)祭」に今年も2点の作品を献捧燈予定(本年で88回目の行事ですが、18歳から奉納を続けています。)

今年の雪洞祭献捧文人画
インタビューの際に竹紙に描いて頂いた竹の絵